白浜温泉 崎の湯

更新日:2016年5月20日

(写真)白浜温泉・崎の湯

目の前に雄大な太平洋が広がり、波しぶきが届くほどの最高のロケーションです。湯壷は万葉の時代より残る歴史あるもの。波の音、潮の香り、綺麗な空・・・大自然と歴史を存分に感じながら入浴を楽しんでいただけます。

※崎の湯は、お風呂のお湯が海に流れるため、シャンプー・リンス・石鹸などをご利用いただけません。

ご利用案内
所在地 和歌山県西牟婁郡白浜町1668番地
電話 0739-42-3016
営業時間

8時〜17時
7時〜19時(7月1日〜8月31日)
8時〜18時(4月1日〜6月30日,9月1日〜9月30日)
最終入場は終業時間の30分前まで。

定休日 毎週水曜日
(水曜日が祝祭日の場合は翌日休業)
入浴料金 3歳以上420円
割引 障害者無料(介助人含む)
備品 タオル200円 湯の花(大)600円 湯の花(小)300円
コインロッカー100円 自動販売機あり
風呂の種類 かけ流し露天風呂
泉質 ナトリウム塩化物泉
源泉名 行幸湯(みゆきゆ)
泉温 78.0度
湧出量 測定不能
性状 透明・中塩味
効能 神経痛、関節痛、慢性皮膚病、婦人病 など
交通 JRきのくに線白浜駅から明光バス新湯崎行きで約15分、湯崎下車、徒歩約5分。
阪和道南紀田辺ICより車で約10キロメートル 約15分
駐車場 15台

 

歴史

(写真)白浜温泉・崎の湯2

白浜が温泉地として世に知られるようになったのは、今から約1400年前の飛鳥・奈良朝の頃で、その走りが「崎の湯」です。その頃の「崎の湯」は、「牟婁温湯」と呼ばれており、「日本書紀」や「万葉集」にも記されています。

斉明3年(657)、時の孝徳天皇の皇子である「有間皇子」が、この「崎の湯」に逗留され、その「有間皇子」の薦めで木の根険しい山坂をいとわず、翌年には、「斉明天皇」が、大宝元年(701)には、「持統天皇」「文武天皇」が行幸され、また熊野詣での往来に、「後白河法皇」をはじめ、都の貴族たちが沐浴されており、道後・有馬と並んで日本最古の三湯の一つの温泉とされています。

その頃の「崎の湯」は、砂岩に浸食された窪みが自然の湯舟になっていて、海を眺めながら入浴していたとされており、本当にのどかな自然のままの磯風呂で、今日の「崎の湯」もその頃を感じさせています。詩人である中村憲吉(広島県出身:アララギ派の重鎮)は、崎の湯のことを次のように歌っています。

『遠い世の女みかどを慰めし、紀伊のみゆきはこの湯にありき』

経緯
西暦 元号 記事
657年 斉明3年 有間皇子が来遊し、斉明天皇に「牟婁温湯」を推賞する。(日本書紀)
658年 斉明4年 斉明天皇が皇太子(後の天智天皇)と共に「紀温湯」に行幸する。(日本書紀)
685年 天武14年 『牟婁の湯は没れて出でず』と紀伊国司報告。(日本書紀)
691年 持統5年 持統天皇が紀伊に行幸する。(日本書紀・万葉集)
701年 大宝元年 文武天皇が太上天皇(持統天皇)と共に「牟婁温泉」に行幸する。(続日本書紀)
牟婁温湯・武漏温泉・紀伊温湯が湯崎の温泉であることは「紀伊続風土記(鉛山の条)」、仁井田好古「湯崎温泉碑文」、宇井可道「牟婁温泉考」で証明されている。
1733年 享保18年 儒者・祇園南海来遊「鉛山紀行」「鉛山七境詩」を著し、「崎の湯」を金液泉として、鉛山七境詩の一つに数える。
  幕末 「崎の湯」が藁屋根であったのを瓦葺きとする。
1878年 明治11年 「崎の湯」浴室北側の三間へガラス戸6枚を差し入れる事になっていたが、以後、外国人が入浴に「罷越候ハ硝子戸ニテハ不体裁」との理由で、村民塾議の末に板戸に変更する。
1879年 明治12年 「日本温泉案内」の著者、内務省の御雇外国人へ—スト氏(オランダ人)が湯崎温泉七湯を激賞する。
余が日本において、これまで分析せしアルカリ泉の最も善良なるものは、紀伊の国に在るものとす。
就中殊に著しきは、浜湯・阿波湯・元湯・崎湯・鉱湯等なり。
鉛山の鉱泉之に亜ぐ。
伊豆及び伊勢等のアルカリ泉は、其勢甚だ微弱なり
紀伊の国の鉱泉は、未だヨーロッパ人の日本在留する者よく知らざる所なるも、もとよりフランスのヴィシー、ゲルマンのエムスに劣らざるものなければ、他日之と比肩して盛大を致さんことを期すべし。
吾かく説くは、其信ずべき実証ある故なり。
現に京都に在る日、之を分析検査したり云々。

 

お問い合わせ先
観光課 公園施設係
〒649-2211 和歌山県西牟婁郡白浜町1600番地
電話:(0739)43-6588 ファックス:(0739)43-7825

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